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 □「セイキロスさんとわたし」 no.07

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■元資料の行方

1.ここ何回か碑文の「うつし」を確認してきましたが、

「私は石碑です」(私は像、石像です)
εικων ‘η λιθοσ ειμι
エイコーン ヘー リトス エイミ。

(*)今回分の原文・語形分析はこちらを参照・・・

と自己紹介しているあの石碑そのものは
いったいどこにいってしまったのでしょうか・・・
小アジアのスミルナの大火(1922年9月)以降行方不明になって・・・

次の資料集に従って、
Documents of ancient Greek music
: the extant melodies and fragments
edited and transcribed with commentary
/ by Egert Pohlmann and Martin L. West.
-- Clarendon Press, 2001
その行方をたどっていきたいと思います。


2.まず1922年9月までの情報から・・・

すでに古い資料でもたどってきたところですが、
古い資料では見かけなかった具体的な情報も載せられています。

この資料は・・・

●(トルコの)アイドゥン(トラレス)近くで鉄道工事中に発見されて、
建築会社の理事であったエドワード・パーサーさんの
私的コレクションに入った

●底が壊れていたのでまっすぐに削られて、テキストが1行失われた

●(トルコの)イズミール(スミルナ)のブジャに住んでいた
パーサーさんの婿(むこ=娘の夫)である
ヤングさん(*)のコレクションに引き継がれた
(*)youngさん:後de jonghさん。

●1922年9月に
(小アジアで)トルコがギリシアを打ち破るまでそこに留まった・・・

(*)トラレス、スミルナの場所
(*)小アジア:西アジアの黒海・地中海に囲まれた半島。
現在ヨーロッパ部分とアジア部分からなるトルコ共和国のアジア部分を構成。
別名アナトリア。


3.そして1922年9月のスミルナの大火・・・

小アジアを巡るトルコとギリシアの戦いに決着がついて・・・
そしてスミルナは大火に包まれます・・・

小アジアの「ギリシア人」をはじめとする多くの人々が
死なないための移動を始めます。
港には避難民が殺到して・・・
しかし生き延びることは困難で・・・

住み慣れた地域に留まった人々も、
国どうしの取り決めで、
住み慣れた地域から強制的に引き離されて・・・
小アジアのギリシア正教徒はギリシアへ、
ギリシアのイスラム教徒はトルコへ・・・・・・


4.1922年9月以降の情報から・・・

●イズミール(*)のオランダ領事(*)が、
引き続く動乱から保護するためにこの資料を引き継いだ。

(*)イズミール:(トルコの)スミルナの新しい呼び名。
(*)領事:外国に駐在し、自国の通商の促進と在留自国民の保護にあたる者。

●その婿(むこ)willem danielsさんが、
後にこの資料を(トルコの)イスタンブール(*)と
(スウェーデンの)ストックホルムを経由して
(オランダの)ハーグへと運んだ。

(*)イスタンブール:
かつてのビザンティウム、
東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス、
オスマントルコの首都イスタンブール。
トルコの首都はトルコ中央部のアンカラに移動したが、
現在もトルコ最大の都市。

●1966年コペンハーゲンのデンマーク国立博物館(*)の
古典部門がこの資料を獲得。
1967年12月6日、J.Raastedさんが公開講座で世界に再紹介。
現在、博物館11号室の35番に展示(目録番号14897番)。

(*)デンマーク国立博物館


5.散らばっていく資料

「セイキロスさんが私をここに建ててくれました」
τιθησι με Σεικιλοσ ενθα
ティテースィ メ セイキロス エンタ、

セイキロスさんが
わたしを建ててくれた
「ここ」から遠くはなれて・・・

トルコのトラレス、イズミール(旧称スミルナ)から、
トルコのイスタンブール、スウェーデンのストックホルム、
オランダのハーグ、そしてデンマークのコペンハーゲンへ・・・

小アジアから北上して、
北欧デンマークの首都コペンハーゲンの博物館へと移動して・・・、
しかしこうして、
「不滅の思い出の<しるし>」(*)は「生きのこる」ことができました。

(*)「不滅の思い出の、長く生きのこる<しるし>として。」
μνημησ αθανατου σημα πολυχρονιον.
ムネーメース アタナトゥー セーマ ポリュクロニオン。

しかし、
セイキロスさんが
わたしを建ててくれた「ここ」は・・・
わたしたちのコミュニティのあった「ここ」は・・・


6.破壊される資料

とはいえ、
生まれたコミュニティの消滅や移り変わりは、
取り立てて特別なことでもない、
ともいえるのかもしれません・・・

例えばギリシア本土にあるパルテノン神殿は、
コミュニティが移り変わるのに応じて、
移り変わり、破壊され、散らばっていきました。
そして散らばっていった断片を繋ぎ合わせて
古代の神殿を「復元」する「ここ」ギリシアで、
神殿が廃されたのはもうずいぶん前のことです・・・

絵の中のパルテノン神殿
(*)再読込で繰り返し・・・
(win:F5またはctrl+r,mac:cmd+r)

(*)もしも画面が表示されない場合は、
こちらから「Flash Player」の
インストール(取り付け)をお願いします。

□おまけ:ギリシア国歌
古典ギリシア語と19世紀のギリシア語の一例の、
似ているところと違っているところを確認してみましょう。


■次回はセイキロスさんの資料についての総まとめ、
そして次々回は試験(和文希訳、資料について)に取り掛かる予定です。

セイキロスさんのうたを、前書きや後書きも含めて、
何も見ないで言ってみる、

更に楽譜を解説しながら、
うたの振り付けをしてみる、
等々の内容になる予定です。

それでは今回はまず前書きの日本語訳を追いながら、
できたら改めてギリシア語で言ってみましょう。


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(まえがき)

私は石碑です。

セイキロスさんが私をここに建ててくれました、

不滅の思い出の、長く生きのこる<しるし>として。

(*)原文・語形分析


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