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 □「セイキロスさんとわたし」 no.02

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「小さな丸い大理石の柱」について、
前回は1883年のラムゼイさんの活字媒体による報告を読みました。
今回は活字以外の報告を見ていきたいと思います。

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■絵による報告

1893年、ドイツのクルシウスさんは、
フランスのヴェベールさんの制作した拓本
(石碑などに刻まれた文字や模様を紙など押し当てて写し取ったもの)
を元に、輪郭のはっきりした絵を制作して、
ドイツの研究機関の定期刊行物「文献学者」に掲載しています。

Crusius,O.,'Zu nerentdeckten antiken Musikresten',
Philologus 52,1893,160-200

□この報告を前回のラムゼイさんの報告と見比べて、
その異同を確認してみましょう。

例えば「しるし」を比べてみると、その数が違っていることが分かります。


■写真による報告

約30年後の1924年、「フランス国立 アテネ学院」発行の
「ギリシア書簡報告」誌の「発掘記録(Chronique des fouilles)」の中で、
1922年にフランスのロモニエさんの撮った実物の写真が紹介されています。

Laumonier,A.,BCH 48,1924,506f.,fig.20/ Ecole francaise d'Athenes
BCHはBulletin de correspondance helleniqueの略

□この報告をクルシウスさんの絵と見比べて、
その異同を確認してみましょう。

ロモニエさんの写真の右下にはYの文字があって、その行で終わっています。
しかしクルシウスさんの絵を見ると、その下に「ZH」
(一語なら「生き・・・」等)という文字があるのが見えます。

ラムゼイさんの活字媒体による報告でもクルシウスさんの絵と同様です。

このことから、1883年以降、「小さな丸い大理石の柱」の実物から
「ZH」以下の部分が削られた可能性を考えることができます。


■資料の安否

この写真はこんなコメントとともに紹介されています。

Le cippe appartenait,jusqu'a l'incendie de Smyrne (sept. 1922),
a la collection De Jong,a Bourja.
Il est a souhaiter qu'il n'ait ete ni detruit,ni perdu.
Aucune photographie n'en avait ete publiee a ce jour.

「この石柱は1922年9月のスミルナの火事までは
Bourja(ブルジャ?(スミルナのブジャ?))のDe Jong氏が所蔵していた。
これが破壊と散逸を免れていることを願っている。
この資料の写真はこれまで公にされたことはない。」


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■資料とコミュニティ

□例えば同じ大理石でできているアテネのパルテノン神殿の場合、

1687年9月オスマントルコ軍の火薬庫となっていた神殿はベネチア軍の砲撃で大破、

「正典のプロセス」の中で、19世紀以降、
飛び散った大理石の瓦礫が集められ、繋ぎ合わされて、
今日なお「瓦礫の建物」が同じ場所に実物大で「再建」されつづけています。

このことは、
パルテノン神殿がギリシア本土の「ギリシア人」コミュニティの中にあったこと、
更にギリシアという国の枠を超えて古典ギリシアを語る「コミュニティ」が
資料の収集・保存・公開等、様々なプロジェクトを
繰り返してきたことを考えると納得がいきます。


□例えば聖書の場合、

例外的に膨大な手書きによるコピーの断片が残されており、

様々なメディア形態で様々な場所にある様々な時代の断片的なコピー、
いわば元資料の瓦礫の山が、
19世紀以降活字データとして一冊の校訂本の欄外に集められ、
それらが繋ぎ合わされて、
活字に抽象化された「本文」が「再建」されつづけています。

このことは、
国の枠を超えてキリスト教徒のコミュニティが続いてきたこと、
さらにキリスト教の枠を超えて聖書を語る「コミュニティ」が
様々な活動をしてきたことを考えると納得がいきます。


けれども、パルテノン神殿の例や聖書の例は
本当に特別な例外でしかないともいえます。


■受け継がれなかったコミュニティ、受け継がれなかった資料

戦争や地震・大火などの災害に伴ってある資料は単に消滅し、
またある資料はコミュニティの消滅によって意味を失い、
場所から引き離されて難民化し、さらには離散し、
コピーされることなく消滅してきました。

諸「民族」がせめぎあいながら一緒に暮らしてきた小アジアでは、
ギリシア人を含む諸「民族」の最小化がはかられるなかで、
多くの人々が移動を余儀なくされ、多くの人々が死んで、
多くの「受け継がれないコミュニティ」が生まれ、
多くの「受け継がれない資料」が生まれました。

今回の「小アジアのギリシア語資料」もそうした消滅の危機にさらされて、
その安否が気遣われています。
1924年の写真による報告は
まるで行方不明者の捜索写真の張り紙の文面のようです。

実際スミルナの大火では多くの資料が消滅し、
そしてこの資料も行方不明になりました。


■歌い継がれなかった歌

ラムゼイさんが読むことができなかった「しるし」については、
1891年、ドイツのクルシウスさんが次の論文を発表して、
それが楽譜であることを示しています。
Crusius,O.,'Ein liederfragment auf einer antiken Statuenbasis',
Philologus 50,1891,163-172

ラテン語にはこんな言い回しがあります。

vox audita perit, littera scripta manet.
「聞いた声は消え,書かれた文字は残る」

実のところ「書かれた文字」でさえ大部分は残らず、
録音メディアのなかった時代の「聞いた声」となると残りようもありません。

しかし、「うた」はコミュニティを通して歌い継ぐことができます。
もしコミュニティが途切れて、「歌い継がれない歌」となっても、
書かれた楽譜が残っていてば、そこから歌の「再建」を試みることも可能です。

とはいっても、
ギリシア語の楽譜はパピルス等の崩れやすいメディアに
断片的に残されているものが大半です。
しかし、ラムゼイさんの紹介した今回の資料には、
前書きと後書にはさまれて「うた」が丸々残っていました。
そして一曲丸ごと残っていたそのポイントは、
それがパピルスのような崩れやすいメディアではなく、
大理石に刻まれていたということです。

大理石に刻まれているこの石碑の「自己紹介」を読んでみると、
「石碑の制作者」の
「大理石に刻んでどうにかして思い出を生き残らせたい」
という想いを読み取ることができます。

そういう訳で、
まず次回はこの石碑の「自己紹介」を読んでみたいと思います。
そして次に「うた」や「しるし」も読んでみることにしましょう。


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